ホセ・リカルドの子育てライフハック

お父ちゃんの視点で子育てのあれやこれやについて

サラリーマン(元教員)が考える、アフターコロナの時代に必要な教育

急な告白ですが、実は前職は中学校で教員をしていたホセ・リカルドです。

今はまったく教育には関係のない仕事をしており、コロナの前には月1回程度海外出張をするようなところで社員として勤めています。

そんな経緯もあって、この状況下での学校教育のあり方についてはモヤモヤした気持ちを持っており、いつもとは違う切り口となりますが、これからの時代に子どもたちに必要な教育とはどんな姿か皆さんと考えてみたいと思います。

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ちなみに私は大学で教育学を専攻したわけでもないので、教育論であったり、教育の手法について学術レベルの専門的な知識があるわけではありません。あくまで一教員であった経験と、社会人として海外と向き合っている現状と、ふたりの子どもの親として子育てをしている中で感じていることを素直に書いてみたいと思います。

 

教員とはそもそも何のプロなのか

実は教員時代ずっと考えていた問いです。

単純に勉強を教えるだけならば、おそらく塾の先生や、予備校の先生の方が高い単価でプロフェッショナルに教えてくれるのではないかと思います。

勉強を教えることが学校教員の専門性ではないとすれば、学校の先生とは一体何をするプロなのでしょうか。

 

私が導き出した答えは、『子どもたちを社会に送り出す準備をするプロ』、でした。

加えてそれは、そういうサービス業であるととらえていました。

 

こうやって言うと当たり前のことのように聞こえるかもしれませんが、これが案外教育現場で実践するのは難しい。例えば以下のようなことは社会人になれば当たり前のようにしていますが、学校では認められていないことがよくあります。

  • 携帯電話を使用する
  • わからないことがあったらすぐググる(暗記しない)
  • 良いものがあったらコピペする
  • いいものといいものを張り付けて自分の成果にする

また学校生活なる世界では以下のようなことが往々にしてありますが、実生活ではむしろマイナスとみなされることが多くなってきました。

  • 集団生活であるからとあらゆることが横並び
  • 試験の解答は一問一答でそれ以外の回答ができない問題の仕組み
  • 沈黙は金であるかのようなシーン

実は、これらのことが善であるという考えについて、疑問をもっている教育現場はほとんどないのではないかと思います。そんな現場にあって、子どもを送り出す先である『社会』とは一体どんなものが想定されているのでしょうか。

残念ながら私の知る教育現場では、学校の外の実社会を知っている教員の方はごく僅かで、あまりそういうことを意識して児童・生徒と向き合っていないというのが実態であったという印象です。

 

せめて『もしドラ』でも読んで、何を提供する仕事なのか考えてみると何かが変わるのかもしれません。

 

教育の公平性とは何か

最近のステイホームの状況の中で、小学生や中学生に対するオンライン授業を実施する、実施しないは大きな議論になっています。

その時に例えば以下の記事で言及しているような、ネット環境や端末が整備されていないため公教育の公平性の観点からオンライン授業は実施できないという反応があるのは事実です。

www.itmedia.co.jp

上記記事では、逆に環境を整備してしまい、一気にICT化に踏み切った事例を紹介していますが、これはごく稀な例で、多くの現場ではこの「公平性の確保」が重いテーマとしてのしかかり、しかし保護者等からの要望との間に板挟みになっているのではないかと推測します。

このあたりのモヤモヤ感は以下の記事でとても分かりやすく代弁していただいているように感じます。

note.com

 

ここで考えたいことは、果たしてこの公教育が確保しようとしている公平性は、一体誰にとっての利益になるのでしょうか。

すでに私学等ではオンラインでの授業を早い段階で開始し、公立の学校よりも先に進んでいることは周知の事実です。お子さんを私学に通わせている方の話を伺うと、これは紛れもない事実です。

そうすると、すでにこの時点で公教育が守ろうとする公平性とは一体何なのか、という問題に直面します。

 

私はこれまでアジアを中心に何度か渡航し、南米でも暮らしたことがあります。その経験から見ているものは、教育とは決して平等なものではないということです。

言葉をあまり選ばずに単刀直入に言うと、お金を持っている人はその子どもの教育にやはりしっかりお金を投資し、一定程度の水準の教育レベルを確保しています。

では公平性とは何かと言うと、それでもあらゆる人には教育を受ける機会は提供されています。それは人種や性別等によって制限されず、システムとして提供されます。しかしその質については平等ではありません。

 

今、日本の教育現場で語られるオンラインによる教育活動へ踏み切れない理由は、果たして公平性の問題でしょうか、それとも平等性の問題でしょうか。

少なくとも平等性について声高に議論し、その構造を壊そうとするような動きは世界にはないように感じます。

これは裏を返せば、教育とはやはりお金のかかるもので、それこそ投資と同じで、突っ込めば突っ込んだ分だけリターンが大きくなるということは、先進国も途上国も関係ない世界の常識となっているように思います。

それでも公平性を平等性と混同しながら、全体主義的な同調圧力のもと進められる教育は今さらながら強い違和感を感じるものとなっています。

 

グローバル教育とは何か

小学校でも英語が教科となったり、プログラミング教育が始まるなど、日本の教育はまだまだ過渡期にあるのだと感じます。

よくメディアなどでは日本の教育水準が年々低くなっていることが報じられていますが、果たしてそもそもその水準の高さの根拠は何でしょうか。

 

また私の経験から話をしますと、近年アジアの国々の経済水準はどんどん上昇し、その技術力も確実に成長しています。特にその成長ぶりが目覚ましいのはベトナムです。

ベトナムにはビングループという新興財閥がありますが、そこがビンファストという純ベトナム国産自動車メーカーを近年立ち上げました。このメーカーが工場を有するベトナム北部には日本の自動車メーカーも多く進出していますが、近年は工場ワーカーの獲得に苦労しています。それはビンファストが日系工場の5倍の賃金で優秀なワーカー、技術者を採用しているためです。

weekly-economist.mainichi.jp

実はこういう動きはすでにASEANの各地で起こり始めています。中国や韓国のいる東アジアではなく、タイやマレーシアのASEANのリーダー国ではなく、その次に来るといわれているような国々が力をつけています。

日本はそういった国々に追いかけられる存在です。しかもその追う手はすでに私たちの肩にも届き始めています。

果たしてこのような状況で、そういった国々と渡り合うための教育とはどのようなものでしょうか。

 

少なくとも語学については日本語だけでは太刀打ちできません。

日本では高等教育、大学教育を日本語で行うことが当たり前ですが、自国の言葉でそこまでできる言語というのは実は世界的に稀です。

ざっと考えただけでも、英語、フランス語、スペイン語、中国語、ロシア語、ドイツ語などの中に日本語が紛れ込んでいるような状況です。

また、日本では語学学習が苦手であるような話が後を絶ちません。考えてみれば例えばアジアの国々では、家の中の言葉と学校での言葉とコミュニティでの言葉が違うなどと言うことはよくあり、その上高等教育は英語です。語学に対する感度が高くなるのは当然のことです。

そういう人たちと対等に渡り合うための教育とはどうあるべきなのでしょうか。

 

我が家ではディズニーデラックスを英語で見たりすることもありますが、それだけではやっぱり根本的に弱い。。。

けれどこんな風に、今の時代は求めればすぐ身近なところに生きた外国語があります。

jr-lifehack.hatenablog.jp

 

まとめ

お金をかけることは教育にとって間違いなく重要なポイントになることは理解していますが、そうは言っても自分の生活水準との兼ね合いもあります。

少なくとも社会に出ている私たち大人は、実社会ではどんなパフォーマンスが求められ、どうなることが期待されているかを肌身で感じています。

例えば海外の小中学校であったり、日本の一部の私学ではパワーポイントを使って自分の企画や、調べたことを報告する訓練をするそうです。

模造紙に壁新聞を作るのも楽しい取り組みではありますが、ビジュアル的に、効果的なプレゼンテーションが行えることは、おそらく今後も重宝されるスキルです。こういった能力は、小さいうちから経験を積めば積むほど差が出ることは明白ですが、今の公教育の現場ではほとんど取り組まれていません。

私たちは素人ながらにこういった現実と教育現場との間にあるギャップを感じながら、その間を埋めるためにどのように子どもと接したらいいかを、まじめに考えてみる必要があるのではないでしょうか。

我が家では本当に小さな取り組みですが、このステイホームの状況の中で、家の中で幼児向けワークブックに取り組み始めました。なんてことはない市販のものですが、手に取ってみると教材に色々と工夫があって、子どもと一緒になって遊んでいます。

まだまだそれが子どもたちにとってどんな影響があるのかはわかりませんが、彼らが大きくなった時に、そういえば両親となんか楽しいことしたなぁ、という思い出が残ってくれればと願っています。

我が家の経験が皆さんの子育てライフの何かお役に立てば幸いです。